開港都市・横浜の歴史
ご存知の通り本日(2021年6月2日)は横浜開港記念日です。おめでとうございます!
横浜港は1859年の開港以来、関東大震災、空襲と接収、六大事業など様々な出来事を経て今に至ります。
Yocco18のメンバーが「開港5都市景観まちづくり会議」の運営に携わった際に、横浜都心臨海部の開港前から現代までの歴史の流れをまとめた資料を作成しました。この資料の内容を、この機会に紹介させていただきます。
以下に記載する内容は、「開港5都市景観まちづくり会議2019横浜大会」(共催:横浜市都市整備局)で事前準備部会の責任者であった筆者・坂口が、他都市(神戸、長崎、新潟、函館)の行政・まちづくり関係者の方向けに作成したものです。
若輩者かつ勉強不足ゆえ、情報の誤りや不足も多々あるかと存じますが、ご容赦くださいませ。
なお、開港5都市景観まちづくり会議については以下のリンクをご参照ください。
開港5都市景観まちづくり会議 2019横浜大会
事前資料 歴史編
2019年10月20日
開港5都市景観まちづくり会議
2019横浜大会実行員会・事前準備部会
文責:坂口 祐太
【はじめに】
「開港5都市景観まちづくり会議2019横浜大会」をより有意義なものにして頂くために、開港前から現代までの横浜の歴史の流れをまとめました。
横浜大会を通じて耳にする、あるいは訪れる場所がどのような歴史を経て今の姿になったのか、理解を深める一助になれば幸いです。
情報量が非常に多いのですが、特に下記の出来事が重要だという事だけでも覚えて頂けると横浜大会がより充実したものになるかと思います。
開港、工業化、関東大震災、空襲と接収、横浜駅西口の発展、国際海運のコンテナ化、六大事業
また、横浜都心臨海部(中心部)は開港場周辺(関内・関外)と交通の要衝である東海道(横浜駅)の2つをコアに発展してきた街※であり、2つの関係性にも注目しながらご覧頂けるとより理解が深まると思います。(みなとみらいも2つのエリアをつなぐ目的で開発された経緯があります。)
なお、文中に記載のある地域の位置関係については、別紙(地図)も合わせてご確認頂くと理解しやすいかと思います。各埠頭の位置については下記ページをご確認下さい。
https://www.city.yokohama.lg.jp/kanko-bunka/minato/yokohamako/gaiyo/gaiyou.html
【本編】
<開港前の横浜:1601〜1859年>
江戸時代、交通の要衝である東海道沿いに神奈川宿、保土ヶ谷宿などの宿場町が発展した。特に、神奈川湊の近くにあった神奈川宿(現在の横浜駅北側)が栄えた。
後に開港場となる横浜村は神奈川宿の対岸に位置する半農半漁の寒村だった。
関外地区(伊勢佐木町など)ではこの時期に吉田勘兵衛によって新田開発が進み、海が干拓された(吉田新田)。関外地区が陸地化された事は横浜開港の礎となった。
<開港場(関内)の誕生:1859年〜1870年代>
神奈川の開港を主張する諸外国に対し、幕府は日本人との接触を避けるため東海道から離れた横浜村(関内)を開港場と決め、1859年に開港した。
関内は三方を川に囲まれ出島のようだった。関内の東半分と山手が外国人居留地に、関内の西半分は日本人居住地となった。その後、大火災(豚屋火事)を経て、日本大通りや彼我公園(横浜公園)も完成した。設計はともにブラントン。
同時に、横浜道や日本初の鉄道など神奈川(東海道を経て東京)と開港場(関内)を結ぶ交通インフラが整えられていく。当時、横浜駅周辺は海だったが、高島嘉右衛門によって鉄道用地が埋め立てられた。
また、開港によって外国人が居留(一時期、英仏軍も駐屯)するようになり、多くの外国文化が横浜から日本中に広まっていった。これらの文物は「横浜もののはじめ」と言われ、石鹸、ビール、アイスクリーム、パン、西洋野菜、牛鍋、新聞、ガス灯、近代水道、競馬、写真、洋式公園(山手公園)など様々である。
<生糸貿易で発展する横浜:1859年〜1900年代>
横浜港は、生糸・茶の輸出を中心に貿易港として日本国内で6〜8割と圧倒的なシェアを誇った。街は急速に発展し、伊勢佐木(関外地区)など開港場(関内)周辺地域も取り込んで行った。1889年には関内とその周辺エリアで市制が施行された。
横浜商人(原善三郎、原富太郎(三溪)、茂木惣兵衛、小野光景、大谷嘉兵衛、平沼専蔵など)は山手に住む外国人に倣い、野毛山、本牧、高島台など周辺の丘陵部に邸宅を構えた。
なお、1899年には居留地が撤廃され、外国人の居住制限はなくなった。
<近代化する横浜港:1880年代〜1910年代>
開港期の横浜は都市としても港としてもインフラが貧弱だった。そこで、横浜水道の整備や近代的港湾への改修工事(第一期築港工事:大桟橋、内防波堤など)が行われ、船舶を改修するためのドック(横浜船渠)も現在の「みなとみらい」周辺に作られた。これらの事業はパーマーが指揮をとった。
また、1890年代以降、神戸港が輸入額で横浜港を上回るようになり、対抗する目的もあり第二期築港工事(新港埠頭、赤レンガ倉庫など)が行われた。
帆船日本丸と旧横浜船渠第1号ドック(通常は注水されている。)
【筆者撮影】
創建当時の新港埠頭(現在の赤レンガ倉庫周辺)
【出典::横浜開港資料館HPより】
<工業都市へ:1910年代〜1920年代>
1910年代になると関内から約8キロ北東に位置する鶴見(1927年横浜市編入)から工業地帯が形成され始める。
浅野総一郎が中心となり設立した鶴見埋築株式會社によって、多摩川河口から鶴見川河口にかけて約150万坪に及ぶ広大な埋立地が完成した。埋立地には鶴見臨港鉄道も敷設され、主に重化学関連工場が進出した。これによって横浜市は従来の貿易都市に加えて、京浜工業地帯の中核都市になっていく。
昭和初期の鶴見
【出典:有隣堂HPより】
<関東大震災と復興:1923年〜1930年代>
相模湾を震源とする関東大震災によって、横浜は甚大な被害を受け、震災前に建設された建物はほとんどが倒壊した。震災後、生糸貿易の中心が神戸港に移り、在浜外国人も移動した。
一方で、有吉忠一市長の大横浜建設のスローガンの下、横浜港の拡充(第三期築港工事:瑞穂埠頭、高島埠頭、山内埠頭、外防波堤など)、臨海工業地帯の建設(子安・生麦沖の埋立)、市域拡張(および区制施行)が行われ、現在の横浜市の原型が作られた。
また、この時に復興公園として野毛山公園、山下公園などが整備された。
<戦前-モガモボの時代:1920年代〜1930年代>
関東大震災から第二次世界大戦までの束の間に、横浜はモダンガール(モガ)とモダンボーイ(モボ)が闊歩する華やかな時代を謳歌した。外航定期客船は最盛期を迎え、伊勢佐木町もシネマとデパートの街として賑わった。
また、横浜駅が現在地に移転するとともに、私鉄各線が乗り入れターミナル化した。私鉄沿線を中心に横浜近郊の住宅地化が進んだ。
<横浜大空襲と接収:1941年〜1950年代>
太平洋戦争の直前の1941年に東京港が開港し、横浜港の首都圏における独占的な地位が崩れた。
1945年には横浜大空襲で都心臨海部が壊滅したうえに、戦後は関内・関外地区の多くが米軍に接収され、復興が遅れた。この時、港湾施設も多くが接収されたため、出田町埠頭と現在、IRの候補地として話題になっている山下埠頭が建設された。なお、今でも瑞穂埠頭は接収されたままである。
一方で、本牧が米軍横浜海浜住宅地区となった事から横浜はアメリカ文化・ライフスタイルの発信地となった。
空襲によって焼けただれた横浜市街。右側が関内地区、左側が関外地区。
【出典:横浜市HPより】
<戦後 -人口増加と急速な工業化:1949年〜1971年>
1949年に戦災復興のため日本貿易博覧会が野毛山と神奈川(反町公園)の二会場で行われた。
この時期、東京への人口集中の影響を受け、横浜市の人口は急拡大した。1951年には人口が100万人を突破し、その後も1968年には200万人、1985年には300万人を超えた。
1950年代後半になると貿易額は戦前の水準に達し、山下埠頭が拡張され、山下臨港線が開通した。また、工業化が進み、大黒町地先と根岸湾が埋め立てられた。これにより都心臨海部とその周辺において自然海岸はなくなった。
根岸湾の埋め立てと並行して、1964年に根岸線(横浜駅から関内駅を経て磯子駅。のちに大船駅まで延伸)が開業した。
山下臨港線プロムナード。現在、山下臨港線の跡地は遊歩道となっている。
【筆者撮影】
三溪園から見た根岸湾。かつては風光明媚な海岸だった。
【筆者撮影】
<横浜駅西口の発展:1950年代〜1960年代>
戦前、繁華街として栄えた伊勢佐木町(関外地区)は米軍の接収によって復興が遅れた。その間、相模鉄道株式会社が横浜駅西口の土地を買収した事を契機に開発が進んだ。1956年に横浜名品街が開店したのを皮切りに、1960年代までに横浜高島屋、横浜ステーションビル、ダイヤモンド地下街などが開業した。これらによって商業の中心地が横浜駅周辺に移り、今に至っている。
1960年代の横浜駅西口
【出典:松田平田設計HPより】
<旅客機とコンテナの時代:1950年代〜1980年代>
1950年代から海外渡航の主力が空路に代わり、外航定期客船は急激に衰退した。
1960年代になると国際海運の中心がコンテナ輸送になり、都心臨海部周辺の本牧埠頭と大黒埠頭がコンテナ埠頭として建設された。これにより、都心臨海部はヒト・モノが行き交う港としての機能を失った。
また、両埠頭が出来た事で都心臨海部は慢性的な交通渋滞に悩まされる事になった。
本牧埠頭
【出典:横浜市HPより】
<六大事業:1960年代〜1980年代>
横浜駅周辺と関内・関外地区に二分された都心臨海部を連結させるとともに、交通渋滞や乱開発など高度経済成長のひずみをなおすため、1960年代に飛鳥田市長により提起されたのが六大事業である。具体的には、都心部再開発(みなとみらい)、金沢地先の埋立、港北ニュータウン、地下鉄の整備、高速道路網の整備、ベイブリッジである。今の横浜の土台となる巨大プロジェクトとなった。
ベイブリッジ
【筆者撮影】
<みなとみらい:1983年〜現在>
1983年に三菱重工業横浜造船所(旧横浜船渠)が本牧および金沢(横浜市)に移転し、「みなとみらい21」事業が着工した。1989年の横浜博覧会を経て開発が本格化し、1991年にはヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルが、1993年には横浜ランドマークタワーが開業した。現在では、暫定利用も含めて93.1%が利用されている(2019年4月現在)。グローバル企業の本社や研究施設、国際会議場が立地し、観光地としても市内で重要な位置を占めている。今後は音楽アリーナの建設が相次ぎ、エンターテイメントの要素も強まっていく。
2019年4月にオープンした資生堂の研究開発拠点
【出典:資生堂HPより】
2023年完成予定の音楽アリーナ
【出典:ケン・コーポレーションHPより】
<現在:創造都市、関内・関外地区の再生、エキサイトよこはま22>
現在、横浜市ではBankART1929など、歴史的建造物を文化芸術の拠点として活用する創造都市政策が行われている。
関内・関外地区では、「国際的な産学連携」「観光・集客」というテーマに沿った地区の賑わいと活性化の核づくりとして「現市庁舎街区活用事業」等が行われていく。
また、横浜駅周辺では「国際都市横浜の玄関口」として再開発が進んでおり、駅ビルの建設やグローバル企業の立地が進んでいる(エキサイトよこはま22)。
BankART Home(BankART1929が関内で運営するアート・建築系書籍のCafé & Shop。現在は営業終了。)
【出典:BankART1929 HPより】
【参考資料】
高村 直助,横浜 歴史と文化 ―開港150周年記念,有隣堂,2009.